服を着るということ

ファッションに文脈を見出しすぎる人がいる。スーツを着れば体制側、パーカーを着れば反体制、と断じる人種だ。他方、他人の装いに文句をつける者もいる。オジサンのパーカーは見苦しい、オバサンの若作りは見るに耐えない。そして、自ら選んで着る服に何の関心も持たない者もいる。好きだから着ているだけで、他人には関係ない、外見で判断するな、と。

これらは一見てんでバラバラの態度に映るが、根は同じだ。服飾とは歴史であり、ファッションとはプロトコルだということだ。

古くは服装はその人の身分や生業、階級を表した。制服は所属組織を明らかにし、時に威圧感を放ち時に安心感を与えた。好みの服を自由に選べる今日においては、それは主張や思想、自己スタイルの表現でもある。世にある服の型やディテールの背後には、たいてい何らかの事情がある。用途であれ階級であれ、反抗であれ商業であれ、無から生まれたものは少ない。軍服を元にしていたり、権利闘争の記憶であったり、ギャングが力を示すために選んだものであったり、職人の作業着であったり。模倣され、改変され、アレンジされ、変化を重ねるからこそ、服には歴史が刻まれ文脈が育つ。服を着た時点で、その服の持つ文脈の上に立つことになる。

だからこそ、ファッションは挨拶や礼儀と同型のプロトコルだ。自分はこういう服装を纏う人間であるという表明であり、場に相応しい格好を選ぶ礼儀を弁えているという挨拶、あるいは相応しくない格好をすることで反骨を示す宣戦でもある。プロトコルがあるからこそ、逸脱もまた意味を持つ。前提なき逸脱は、ただの無秩序にしかならない。

社会で生き、人の交わりの中で暮らしていくならば、何も考えていない、好きな格好をしているだけだ、放っておいてくれ、という言い訳は通らない。外見は否応なく相手に印象という影響を与える。奇抜な格好をすれば警戒され、不潔な格好をすれば嫌悪され、時には排除される。放っておいてほしいなら、少なくとも目立たない装いを選ぶほうが現実的である。装いへの無配慮は、周囲に解釈や対応の負担を丸投げする社会コストのフリーライドと見なされ、時に拒否や攻撃を招く。自由をそれと取り違えれば、当然その反応を引き受けることになる。

ファッションに興味などない、知りたくもないという向きもあるだろう。無理に興味を持つ必要はない。しかし、興味がないからと交通ルールを知らない、信号を無視するでは通らないように、服装もまた否応なく他人に影響を与える。今まさに着ているその服を選んだのは自分自身だ。自らの装いに何の責任も持たない訳にはいかない。それが通用するのは服を買い与えられる子供までの話である。考えなしは浅慮と受け取られ、馬鹿にされ、軽視される。自由を思考停止の言い換えにすれば、その評価は避けられない。

とはいえ、日常の服の一着にいちいち向き合っていては身が持たない。普通の服装、無難な格好を知り、それに沿えばよい。社会で無用な軋轢を生まないように、他人を不快にしないように、自分が不利益を被らないために服装を選ぶ。それがプロトコルというものだ。

そして多くの人は自分の服に深い考えなど巡らせていないし、他人の服装も気にしていない。最低限、訝しがられない格好であれば問題はない。だからこそ、他人の装いに突っかかり、知識を振りかざしレッテルを貼るファッションオタクの振る舞いは、いかにも品のない態度だ。服装を見て人を見立てること自体は誰でもやっている。しかしそれは内心に留めるもので、攻撃の口実にはならない。己の中身の無さを過剰な装いで覆い隠し、強くなったと錯覚しているだけである。どんなに仕立てのいい服も、装いは人格の代用品にはならない。

限られたパターンの中に自分らしさを見出すのが、スタイルというものだ。服の型は無数にあるようでいて、日常の現実的な選択肢はさほど広くない。予算があり、体型があり、生活がある。その制約の中でどう選ぶか、何を組み合わせるか、どこに拘りどこを妥協するか。その積み重ねの中に個性が滲む。制約は不自由であると同時に、遊び場でもある。

ファッションの歴史を知れば、その遊び方に幅が出る。何気なく着ているその一着が、どこから来て、どういう文脈を纏っているかを知ることは、単なる蘊蓄ではない。選択肢が増えるということだ。ミリタリーの文脈を知れば、その要素を意図的に取り入れることも意図的に外すことも出来る。ワークウェアの由来を知れば、それを普段着に落とし込む際の筋道が見える。知識は制約ではなく、地図だ。地図を持てば、迷わずに済む。

さらに言えば、服の歴史だけでなく、自分自身の歴史を踏まえることが着こなしに筋を通す。自分がどういう体型で、どう生きてきて、何が似合い何が似合わないかという実績の積み上げ。職業、年齢、生活習慣、育ってきた土地の空気。それらが自ずと自分という素材の基本を作っている。その基本を無視して流行だけを追えば、どこかちぐはぐな印象になる。流行を取り入れるにしても、自分という軸を持った上で取り入れるのと、軸なしに流されるのとでは、同じ服を着ていても全く違って見える。

服に着られる、という状態がある。全身ブランドで固めているのに妙に落ち着かない人や、スーツ姿なのにどこか借り物感が拭えない人、誰でも一度は目にしたことがあるはずだ。服ばかりが主張し、着ている人間の影が薄い。高価であれ流行であれ、服が前に出すぎて人が消える。逆に御している人間は、どんな服を着ていても自分が主体として立っている。服はあくまで道具であり、言葉であり、自分を表すための手段だ。道具を使いこなすには、道具を知り、同時に自分を知る必要がある。その両方が揃って初めて、服を御すことができる。知ることは、縛られることではない。

社会で生きる以上、服を着ないという選択肢はない。どうせ着るなら、楽しんだほうがいい。義務だと思えば重く、遊びだと思えば軽くなる。スーツで会社に通うならネクタイで遊んでみたっていいだろう。 V ゾーンと呼ばれるその部分は、顔の次に印象を左右する場所だ。無地であっても色味はどうか、幅は太いか細いか、布地は柔らかく暖かみのあるものか、光を反射する張りのある生地か。相手が詳しくなければセオリー通りの印象を与えられるし、目端の利く相手であれば、そこから会話が生まれることもある。ときにはアニメ柄のようなものを選び、上司に咎められないギリギリを探るのもまた遊びだ。たかがネクタイ一本でも、色や幅や生地ひとつで印象を操り、会話を生み、場の空気を動かす。その作用は他人に向くだけでなく、自分をも高揚させる。そこにこそ面白さがある。

毎朝の選択を煩わしいと感じるか、小さな自己表現の機会と捉えるかは、見方次第だ。深く知るほど選択に根拠が生まれ、自分という軸が定まり、装うことが少しずつ面白くなる。それは単なる見栄えの話ではなく、精神的にも文化的にも、豊かな生活を形作る営みである。

そして私はといえば、今日も家にいて、猫の毛まみれのフリースに包まっている。外出の予定がなければ着替えもしない。そもそも人と会わなければ服に気を遣う必要もない。プロトコルを語っておいて、プロトコルが発動する場に出ていかないのだから、都合のいい話だ。