それより以前に通信インフラや設備・機械が運用されていたことは言うまでもない。しかし、パソコンやインターネットが一般家庭にまで広がる契機となったのは、やはり 1995 年の Windows 95 の発売であったと言って大過ないだろう。少なくとも日本国内において、かの OS がパソコンという利器を一部の愛好者や専門家の手から解き放ち、一般の家庭や一個人の生活圏へと押し広げた転換点であったことは、おぼろげながらも確かな実感として記憶に残っている。
もっとも、当時ただちにインターネット利用が隅々まで行き渡ったわけではないにせよ、後の本格的な普及を準備する地盤を築いたという意味において、1995 年を一つの象徴的な画期として位置づけることは、少なくとも一つの見方としては妥当だろう。
当時まだ鼻タレの自分も、それがどういう利器であるかを理解しないまま、新しい玩具程度の興味で触れることが出来たのは単に父親が新しいもの好きであった賜物だった。
それが麻薬的であったのはインターネットと繋がる事で常に新しい刺激を生み続ける構造にある。当時も既に家庭用ゲームは存在しており新しいもの好きの父親が故に当たり前のように自分も触れてはいたが、如何せん当時のゲームは刺激が一定量で完結している。比べてパソコン・インターネットにおいては毎日のように新しいコンテンツが生み出され、興味の向くままインターネットサーフィンを行えばそこは無限と言えるような情報の海が広がる。根暗でインドア気質の鼻タレが囚われるのも已む無しだ。ネットを泳ぎ見知らぬ誰かと交流し、自分個人がウェブサイトというものを発信できると知り興味を持つのも自然な流れであり多分に漏れずその内の一人となった訳で、長い前置きである。
当時の呼称で「ホームページ」という言葉も、今ではすっかり死語であろうが、今よりもっと一人一人の距離が遠いが故に広大なインターネットという世界に、自分の土地か家かあるいは世界か、誰に侵されることのない自由な場所を持てるというのはとても大きいことだったと思える。たとえ不恰好な見た目でも、ろくに内容もなく掲示板以外は工事中だらけのコンテンツでもだ。自分の自由な発言を保証される、自分だけの居場所を、自分の責任の下で憚ることなく獲得できたのは、本当にとても大きいことだったと思える。
では令和における個人サイトとはどういったものだろう。恐らくその根本にある「個人が自らの場を持ち、自らの責任において発信する」という性質自体は、往時と大きく変わってはいないように思われる。昔から続けている人もあれば、新しく始めた人もいるだろう。自分のサイトを持つことで得られる創作の充足や、孤独や自由と引き換えに背負う負担といった体験の核は、時代を越えて共通する部分があるのではないか。
もっとも、その置かれた環境は明らかに変わった。発見の経路は検索エンジンやアルゴリズムに依存し、収益化の仕組みも整備され、炎上や過度の拡散といった新たなリスクも生じている。したがって、体験の質が全く同一であるとは言い難い。ただ、本質的な動機――自己表現の欲求や、他者との緩やかな接続を求める心性――は大きく隔たってはいないように思われる。
量について言えば、少なくとも独自ドメインを構え、自前で運用するホームページという形態は、かつてに比して目に触れる機会が減った感は否めない。一方で、各種ブログサービスや投稿型メディアにおいて個人の発信が増えているのも事実である。形式は分散し、可視性の構造が変わったにすぎないとも言える。
現代のインターネットにおいて、個人の主たる居場所は各種SNSのアカウントへと移っている。利用者は各社プラットフォームの定める枠組みの内側で活動することを選び、その利便性と即時性の恩恵を受ける。文章はこの場に、写真はあの場に、音声や動画はまた別の場にと、機能ごとに最適化された環境が整えられている。かつて個人がホームページに自己のコンテンツを集約させていたのに対し、今は複数のプラットフォームへと自己を配分する時代である。
それを単純に良し悪しで裁くことはできない。ネットの利用者と情報量が飛躍的に増大した結果、分類と特化が進み、効率と到達可能性が重視された帰結とも言えるだろう。中央集約と分散の揺れ動きのなかで、個人サイトという形式もまた、その位置を変えつつ存続しているのである。
個人サイトという形式が主流の座を退いた結果として、独自に制作し公開するまでの心理的・技術的ハードルは、かえって上がった面もある。一昔前は技術に明るくない層に向けたホームページ作成サービスも多々存在し広く認知されていたが、今も存在はするにせよ主流とは言い難く、影は薄い。また、HTMLとFTPとレンタルサーバーを見様見真似で乗り越えれば良かったのに比べ、無料あるいは少額で済まそうと思えば、必要な知識は専門性を増していく。また、HTML/CSS はまだしも、小中学生に GitHub や Cloudflare を乗り越えろとは自分にはとても言えない。いや存外に子供というのは貪欲で賢く、熱意のある小中学生ならあるいは難なく乗り越えるのだろうが、そのような例は決して多くはなく、誰にでも容易いことでもないだろう。
もっとも、個人サイトには一つだけ決定的な利点がある。誰の規約も顔色も気にせず、更新を怠っても、唐突に長文を書いても、趣味の話に脱線しても咎められないことだ。アルゴリズムに好かれる工夫も、炎上を避ける配慮も、ここでは必須ではない。読者に迎合しない自由と、読まれないかもしれない孤独は表裏だが、それを引き受ける覚悟さえあれば、この場所は驚くほど気楽である。
主流とは言い難く、どこか先の明るさも見えにくい個人サイトを、私が何故今また始めるのか。かつての郷愁と言われればそうかもしれないし、それから得られる体験の核は今で尚色褪せない他とは違う輝きがあると、誰かが言ってくれるかもしれない。答えはどこかにあるのかもしれないが、今のところ見聞きはしていない。
鋭利な問題提起も、快刀乱麻な指針も提示せず、文意の曖昧さもそのままに、揺らぎを残して筆を置く。物足りなさを覚えるなら、それはごもっともだ。締まりを欠くと感じたなら、それは恐らく正しい。しかし結論まで整えて差し出すつもりも欠片もない。
何しろここは、私の個人サイトなのだから。