日本人の心だ誇りだのといったところは欠片もないのだが、桜が咲いたのなら毎年一度は相対する時間を取らないとなんとも座りが悪く感じるのは、やはり日本人の心がどうのというより単に貧乏性の為すところだろう。梅や紅葉ではそこまでの気持ちにならないのは流行りとしての圧の差と希少性だろうか。なんにしろ俗物であるのは疑いない。
だいたい桜は足が速すぎるせいでこちらの気持ちを焦らせてくるのが悪い。コンビニの限定商法でもあるまいに、もう少し堪え性を持ってほしい。今日にも見ねば明日には散るか葉桜かと迫られれば抗えない小人が朝から原付を転がし写真を取りに行けば五分咲きといった具合であった。急ぐ必要もなかったと項垂れつつも眺めてみればまあ充分に綺麗に咲いていたので良しとしてしばらくレンズを向けていた。
近所の田んぼ脇、用水路に沿う歩道の半ば、距離は目算200メートルそこそこだが1メートル置きに植えられているとすれば旨200本と考えれば結構な数だと書いていて気付いた。とはいえ田舎によくある桜並木という風情で景観も良いものでもないが、なにもない牧歌的な雰囲気は嫌いではない。実はもう少し離れたところに桜の名所と呼ばれ毎年地獄の渋滞と人混みを生む場所もあるのだが地獄なのでそこは好きではない。地獄なので。
田んぼを耕すトラクターと、遠くの電車の音と、用水路の水の流れる音と、時々水に飛び込む亀の音くらいが聞こえる中で心地よい風と日射し、花粉か黄砂で濁り空なのが惜しいが十分ではある。眠らせっぱなしのカメラをしばらく構えながら散歩していた。
気持ちはいいのだが、被写体としての桜はなんとも厄介で。背景に変化や工夫の余地があればまだ遊びやすいが毎年変わらぬ田舎道の遠景に遊びもくそもなく、プロや慣れた人ならともかく、自分程度ではすぐにネタも尽きてしまう。使い方を忘れたカメラと格闘してる内にだんだんと飽きてきては100枚も撮らぬところで原付に跨り帰り道へ。
私の桜との付き合い方などこの程度で、来た・見た・帰ったでお終いである。学でもあれば思想に馳せよう、情緒があれば五感に浸ろう、どちらも足りない身ではこんなものだがそれでも桜は今年も綺麗に咲いていてそれを見届けたなら悪くない彩りだろう。心地よい程度の肌寒さとよい陽射しの日に家に着いたらば窓を開けて布団に潜り込んだ。
写真データをパソコンに移し現像しようとしたら気付いたのだが、前回の撮影から見事6ヶ月ぶりの撮影なことがわかり宝の持ち腐れがひどい。桜でも咲かないとろくに写真も撮りにいかないのであれば焦らされるのも意味があるのかもしれない。